東日本大震災から6年

東日本大震災の時を振り返る

地震の概要

2011年3月11日午後2時46分に、仙台市東方沖70kmを震源としてマグニチュード9.0の大地震が発生。この地震によって最大40mにもなる大津波が発生し、東北地方から関東地方で大きな被害が発生した。特に宮城県、福島県、岩手県での被害は、日常からは想像しえないものとなる。死者、行方不明者は合計で18000人を超え、明治以降では関東大震災や明治三陸地震に次ぐ被害となった。死因の90%が溺死といったことからも、津波の力の強さと恐ろしさを伺うことができる。
大きな揺れとなった各地では、ライフラインが寸断され停電や断水が長期に渡って続いた。福島第一原子力発電所の事故の影響もあり、現在も避難所での生活を余儀なくされている方も多い。

地震発生時~発生後何をしていましたか?

2011年3月11日午後2時46分、皆様は何をしていらっしゃいましたか?昼間だったので、電車やバスに乗っていた方や車の運転をしていた方、仕事や学校、買い物やお掃除等様々な状況だったことでしょう。
突然の大きな揺れ、6年経った今もあの時のことは鮮明に覚えているのではないでしょうか?私はデスクワークをしている時でした。
グラグラッと揺れたかと思った瞬間に『ドンッ』と音がして停電。揺れがどんどん大きくなってくる。とっさの事で周りの皆もしゃべる余裕もなく、互いの視線を交差させ刹那の大変さを確かめ合う。職場の状況を恐る恐る確認して建物から避難はできる状況だと判断。揺れが治まったのを確認して、皆に避難の指示を出す。外に出て建物から少し離れた場所で皆が避難出来たか点呼し確認する。再び大きな揺れが襲う電柱や周りの建物が不自然に踊り出し、立っていられずにその場にしゃがみこむ人もいる。同僚達にケガは無く皆一安心するも、揺れがたびたび起こると、また緊張した面持ちで無口になる。皆家族に連絡をとろうとするも、回線が混み合って繋がらない。メールも試みるが、やはり届いていないようだ。
その日は、地震発生から約1時間後の15:48で仕事は終了となり帰ることとなった。道路は停電した信号の前に、行き場を失った車で溢れかえっていた。私は自転車で通勤していたのが幸いしたが、同僚は5kmの帰路に4時間程近く掛かったそうだ。帰路では電線が切れて垂れさがっている場所もあり、改めて大変な状況だと感じた。
帰る際、家族がどんな状況かも判らない中、何が今必要かを考えた。ガスや電気、水道も使えない状況を想定し、コンビニに寄って、調理しなくても済むパンやおにぎり飲み物を買うことにした。コンビニに着くと、同じように考えた人が多かったようで、棚のものはもう少しで無くなる所だった。夕食の分はなんとか確保できた。うちでは、いざという時の為に少しは非常食を準備していたので、とりあえずなんとか数日は過ごせるかな?と思いながら家路を急いだ。
家に着くと、近所の方達と妻や子供が外に避難していた。当時、子供は4人で小学生低学年と幼稚園、それと赤ちゃんだったので、まず、家に皆がいたことに安心した。小さな子供達だけだったので、妻は心細かったことだろう。家の中に入ると、水は使えたが電気が使えない。また、大きな地震が来ないか心配だったので、懐中電灯の明かりを頼りにすぐ皆が避難できるよう、リビングで一夜を明かす為布団を運ぶ。子供達はとても怖かったようで、妻と自分から離れようとしないご飯を食べていると少し緊張も緩み、家族が無事だったことに胸をなでおろした。携帯のワンセグでテレビをつけると、日本が大変な状況になっていることがすぐに判った。翌日は、会社に出社し前日の処理に追われることになる。電気はお昼頃まで止まったままだった。

地震の影響

東日本大震災から1週間程は、店の品薄が目立っていた。食料品の棚も半分位空いている状況だった。品薄の状況がテレビで報じられると、それに誘われるかのように買いだめをする人が増える。オイルショックの当時がそんな状況だったと親から聴いていたことを思い出した。
オムツとミルクがお店においていない。小さな薬局をまわり、なんとかミルク2缶と、普段と異なるメーカーのオムツを1つ手に入れることができた。品薄は長く続いた為、関西方面の親戚に着払いでミルクとオムツを送って貰うことにした。
それから、福島原子力発電所の影響で電力不足となっていた為、東京電力管内の輪番停電(計画停電)という、1日に数時間の地域毎の停電がしばらく続き、家と会社とで不便な生活が続いた。電気が数時間使用できなくなるだけで、人間社会は大きく変化してしまうことを目の当たりにした瞬間だった。便利なこと、楽なことが当たり前になっており、色々と考えさられる経験だった。

東日本大震災から学んだこと

いつもの生活が、いつも通りにできることはそれだけで贅沢な事だと気が付いた。携帯電話やテレビ及び電子レンジ等、生きるための衣食住と比べると特段必要のないものと言えるが、それが思っていた以上に日常となっており、それに依存しているか痛感した。また、スーパーや冷蔵庫が無い生活は、自給自足のすべを知らない私たちにとっては致命的であり、いかに日常が脆いか身を持って経験することができたと感じる。その後、私は小さなスペースだが、自宅の庭で野菜を育てることにした。今もキャベツ、白菜が数玉だが収穫できる状態になっている。夏野菜は、トマト、ナス、ピーマン、オクラ、キュウリをある程度上手く作れるようになってきた。また、昨年からは釣りを覚えることにした。何かあった時に大切なのは、やはり備え(物資以外に知識)だと再認識できたから。

それから我が家では、下記を常備するようにしました。

・非常食

水(2ℓ☓6本の箱を6箱)、乾パン、パックご飯、缶づめ、カロリーメイト。それと、野菜による栄養素は他では摂取しにくいものが多いので野菜ジュース、野菜サプリメント。更に、お菓子はカロリーが高くエネルギー元となるので用意した。

・サランラップ

100m巻き☓2つ。皿やコップ敷いたり箸に巻けば、使った後ラップを捨てるだけで洗い物が出ない。寒い時は体に巻いたり、細くすれば紐の代わりにもなるすぐれもの。

・手回し充電式懐中電灯ラジオ付き

明かりは必須。電池が手に入らなくても使用でき、ラジオで情報収集できる。

・充電式高照度LEDライト

暗いと気分も暗くなってしまうのは、輪番停電で経験済みです。食事の時くらいは明るくしたい。

・非常電源

これがあると、200Wまで使用できるので、テレビやPC、照明や携帯の充電等様々な不安が解消されます。

・簡易トイレセット

水が使えない時に、簡易トイレと隠れテント、それと糞尿を固めて菌や臭いを除去する粉。

・カセットストーブ・コンロ

カセットボンベで使用できるストーブとコンロです。ガスや電気が無くても暖をとることができ、調理もできます。

・その他備品

軍手にマスク、歯ブラシや剃刀、ハサミやカッター、筆記用具、ビニール袋、水配給用タンク、ライター、ホッカイロ、電池、絆創膏。

最後に

東日本大震災では多くの方が被害に合われ、私の体験は本当に小さな事となりますが、日本ではこれから首都直下型地震や東海・南海地震と大きな地震が必ず近い将来に起こると言われています。また、日本中に活火山も点在しており、いつ噴火するか判りません。直近では熊本で大きな地震がありましたが、離れていて自分に被害がないとリアリティーがない為、なんとなく他人事のように思えてしまうものです。だからこそ今、6年前の災害を教訓とするためにこの記事を書きました。
これからいつ何時、自分の身に起こることとして、自分自身それから大切な人を守る為にも、備えは十分にして頂きたいと思います。

最後になりますが、東日本大震災および熊本地震により、お亡くなりになられました方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆様に対しまして、心よりお見舞い申し上げます。また、被災地の一日も早い復興をお祈り申し上げます。

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